
私と夫は、2004年の9月に10日間の取材旅行へバリ島を訪れた。
これは「ドイツ人の画家ヴォルター・シュピースの足跡を辿る」10日間だった。
彼の作品「朝日のなかのイセ」は、私達の想像力を掻き立てるだけでなく、彼自身の数奇な生涯を想像させた。
シュピースの足跡を辿りながら、私はこのバリ島の人、精霊、動物や森…の神秘をスピリチュアルな視点で感じ、夢現な日々を体験した。
後々、夫の個展の資料となるこの旅で、私達は多くのバリ人達と知り合い、毎日夜中まで酒を酌み交わし、お互いの人生観、宗教観、そしてバリ芸能について話し合った。
この旅で、私が目撃したシュピースの世界を ここに記してみようと思う。

【福岡空港】
格安で往復できるコンチネンタル・エアーで降り立ったングラ・ライ空港は、白人や東洋人でごった返していた。
真夜中のバリ島は、蒸し暑く紫がかった水蒸気が体中にまとわりつく気がした。神経にまで鳥肌を立たせるように、この暗い熱帯の雰囲気が既に私たちを呑み込み始めていた。
重い機材を抱え 私たちは、迎えてくれた現地旅行社のマネージャー・ナカンと共に今夜だけ担当のドライバーがハンドルを握る車に乗り込み、一路シュピースの最初のアトリエのあるウブドのチャンプアン・ホテルへと向かった。
デンパサールの立派な道路はやがて終わり、ジャングルの湿地帯に曲がりくねった小さな道をひたすら走り続ける車の中で、初めて見るバリ島を夫はどう感じたのだろう…。
独り静かに、私とバリ人たちとの会話を聞いているようにも見えたが、バリ島の呪術的な気配と その神々の存在感じ始めていたのかも知れない。

【デンパサールからウブドへ向かう】
道しるべの小さな灯りに照らされ、静かに佇むチャンプアン・ホテルは、熱帯の蒸気に包まれ、屋根や壁には植物が生い茂り、何十年も長い間私達を待っていたかのようで、少し疲れ切っているようにも見えた。
ロビーでウエルカムドリンクを飲み、ナカンに送迎のお礼を言うと、「明日からは、今回の全日程に付いてくれる通訳のワヤン、ドライバーのデワが来ます。」とのこと。ホテルのスタッフに重い荷物を任せ、私たちは部屋へ通された。いつの間にか静かに雨が降っている。躓かないように注意しながら高低差のある敷地内の小径を歩く。

私たちのために用意された部屋はとても静かな場所にあり、ひっそりとしていてジャングルの中で不思議な色のトーンに包まれていた。熱帯の原生林に囲まれたその部屋は、現実味がなく
私たちの想像や夢想を現実化したような…そんな異様なエネルギーに満ちていた。
激しく鋭くなってしまった感覚は疲れ果て、無数のツタやシダが絡みついた小さなテラスでビンタン・ビールを飲み一息ついた。テラスから見るジャングルの風景は、神秘的で、もつれ捻れ合っている植物はなんだか精霊の魂のように見えた。バリの生ぬるい夜風に当たりながら、木々や葉の擦れる音、雨の音を聞いた。この謎めいた静寂は、何か一定の規則に従って吹き抜ける何かは、感覚を一層鋭くさせた。
ビールはとても冷たかった。
私は、すっかり島の不思議な力に圧倒されてしまい… 瞑想に入ってしまった。
夜中に、小さな音が聞こえるので振り返ると、夫が部屋に入ってきた。私が瞑想している間、独りこのホテルの夜を楽しむために出掛けたと言った。
近くに石で造られた大きなプールがあり、どこまでも続くジャングルを歩いていると、今までの疲れもなくなる位、美しかった…と言った。

バリの濃密なエネルギーが小さなテラスから入ってきた。

【チャンプアンの朝】

【テラスのある客室】
神秘的な静寂の夜はいつの間にか消えてしまい… 私はテラスに出ると木々の間から降り注ぐ光の中で、ホテル内とその周辺の撮影の計画を練った。

【ロビー】
フロントのある本館棟の隣にジャングルを見下ろせるレストラン棟があり、私たちは朝食をとりにそこへ向かった。
初めて見るこの素朴で叙情的なトーンの景色とレンガで造られた介開放的な建物は、さっきまでいた部屋とは全く違い、少しばかり俗世間に戻った気がした。
テーブルから眺めるジャングルとチャアンプアン川は、太陽の白い光の粒と融合し柔らかい色彩になっていた。

【チャンプアン・ホテルのレストラン】


【シュピースの名が刻まれている】
私たちは、すぐにカメラ類を持って、このホテル内の景色を映像に収めることにした。
石で作られた小径は、苔や雑草が何十年もかけて生育している。決して主張せず、情緒ある小径だ。朝に摘まれたばかりの紅いハイビスカスを両手て包む石蔵は、どれもこれも苔はなく、きっと定期的に手入れをしているのだろうと思った。

【チャンプアン内の石像】
敷地の下にはチャンプアン川が流れ、小さな音は止まることはない。
池には、白の睡蓮が美しく咲き、神話の世界を連想させる。年月を重ねた物だけが持つ風格があった。
私たちは、静かに映像を撮り、この間、一言も話はしない…

暑さも増してきた頃、次の目的地である シュピースの絵が保存されている美術館へ行く。
タクシーでも乗ろうか…っと思ったが、道中立ち止まる場所が出てくるだろうと、歩くことにした。
重いカメラは私たちに余分な汗を流させ、それでも美しい景色や植物たちのおかげで疲れなかった。
美術館の中で、面白いことに気付いた。

【ネカ・ミュージアム入り口】
日本では、偉大な美術品を決して裸のまま保存することはない。ちゃんとそれ専用のケースや額に入れ厳重にする。しかしバリは違った。絵も作品も裸のままシンプルに置いてあるのだ(作品の中には複製もあったが)。
この事について調べてみたが、古くなったものは、そのまま朽ちて土に返る…という事だった。もともと、考え方も文化も我々とは違うバリ人。将来どうなってしまうかとか、未来形に対しての考えが「?」なのだ。「古くなったら薪にして燃やす」そして、また新しいのを描く!…何とも潔くてシンプル。

シュピースの作品は、多くは残っていない。
当時、シュピースが世話になった現地民や友人にあげてしまったからだ。また、もらった現地民は、前記の考え方よろしく、ごはんの支度の時に薪代わりに使ってしまった。
勿体ないけど面白い。
美術館帰りは、少し足をのばしてアマン・ダリを偵察。
私は以前他のアマンリゾートを利用したことがあるが、このダリはまだ一度も宿泊したことがない。
アユン川を見下ろし、ライステラスが臨むこのロケーションは、いかにもバリ(ウブド)のイメージそのものだった。
夫は、少しだけカメラを回し、二人でコーヒーを飲んだ。コーヒーに付いてきた可愛いクッキー
は、疲れた体にとてもよく効いた。

【アマン・ダリのプール】
ホテルに戻ると、待ち合わせ時間より早く、通訳のワヤンがロビーで待っていた。ドライバーのデワとも挨拶をし、車で古典画家のニョマンさん宅のあるタマン村に向かってもらう。
今でこそ「アーティスト」という言葉が流通しているが、本来バリにはそう言った意味の言葉がなく、バリ人にとって絵を描くことも踊りも音楽も彫刻もみんな、神々への奉納の為に先祖から伝えられ、教えられた慣習だったのだ。
ウブドの中心から少し離れた場所にその村はあり、ニョマン家の敷地内は、美しい庭と小さな寺を持ち、せっせと鶏や豚が餌を食べていた。その中に木にもたれたニョマンがゆっくりと私たちを眺めていた。
たっぷり2時間、近代と古典絵画の違いについて教えてもらい、ヨーロッパの文化が流れ込み、どう影響があったかを話し合った。その間、私はず~っとこのやり取りを撮影していた。
どうやらニョマンは、とても古いタイプの人で村の知恵袋、と言った感じだ。私はこのタイプが大好きだ。少し、現代の考え方についていけない不器用さを持ち、勤勉で村と家族を愛しているニョマンは信用できる人だった。
突然だったが、私たちの旅の後半は、こちらの家にホームステイさせて欲しいとお願いしてみた。照れくさそうに了解してくれたニョマンだった。
この手入れの行き届いた庭と、伝統的な部屋を見ると、今日明日にでも泊まりたくなってしまった。

こうして、夜遅くにホテルへ戻り、私たちは今日一日の出来事を話し合い、取り終えた写真や映像をまとめた。
そして、ビンタン・ビールを頼み、小さなテラスでゆっくりと時間を過ごした。
テラス越しに見えるジャングルは月の明かりでいよいよ妖しくなり、離れに所々にあるバンガローから子供たちの笑い声が聞こえる。
他のゲストたちのように楽しそうな声も出さずに、私たちはすっかりバリ・マジックに入っていく気がした。

Copyright © 2007 DOG IN THE SOCKS All Rights Reserved.